代表 吉塚の思い

(1)先祖について


曾祖父の吉塚源吉は福岡の生まれで貿易業(主には国内貿易)。おそらくは布団の綿の原料になる綿花/綿布を扱っていたのであろう。新潟の大口顧客だったふとん店「池田末吉商店(池末)」から曾祖母池田イチを妻にもらい新潟に定住した。明治中頃の話。源吉は1901(明治34)年に亡くなり、イチが昭和初期まで吉塚源吉商店を切り盛りする。二人には実子がおらず、池田からもらい育てた養女も亡くなった。イチは亡くなる前に吉塚源吉商店の財産を曹洞宗の寺院に寄進し、その地は現在「吉塚山大仙寺」になっている。(一方で源吉以下先祖の墓は同じ⻄堀の曹洞宗法音寺にある) photo福岡市の吉塚地蔵尊と吉塚駅
『大仙寺ホームページより』 当山は昭和四年、新潟市江南区沢海の曹洞宗専門僧堂大栄寺二十九世耕雲珍龍大和尚が現在地に大栄寺出張所を構えました。これが大仙寺の始まりです。以前は吉塚イチという女流実業家のお屋敷でしたが、珍龍大和尚の信者となって、この土地を寄贈して自ら開基致しました。昭和二十七年出張所から寺格法地大仙寺になり、昭和三十年現在墓地のあるところに、当山二世中興大徳龍仙大和尚が旧本堂を建立しました。平成二十六年には現住職大岳眞龍大和尚によって、現在の本堂を建立しました。 (〒951-8103 新潟県新潟市中央区田中町5178) https://daisen-ji.or.jp/information/ 吉塚の名前が途絶えるのを惜しんだ池田家が再び養子を送り名前を継いだのが、祖父吉塚(池田)清蔵と祖母吉塚(池田)キソだ。二人は血の遠い親戚同士だが子供のころから知り合いだった。信濃川河口にある新潟港に近い附船町に工場(こうば)兼自宅を構えた。親戚の池末の下請け工場だ。多くの船が入る埠頭の近く、造船会社「新潟鐵工所」の城下町。 第二次世界大戦をはさみ商売は傾いていく。清蔵とキソは「布団の打ち直し」の家業で何とか生計を立てながら、7人の子供を育てる。吉塚自身も覚えているが、祖母キソはいつも綿にまみれて作業をしていた。単調で身体に悪い仕事だ。布団には徐々に手入れが不要な羽毛が使われるようになり、メンテが必要な綿は必要とされなくなっていく。 父の清也は清蔵とキソの⻑男、1940(昭15)生まれ。清蔵は1960(昭35)年に亡くなるが、⻑男が成人したのを見届けられたのはまだ幸福だったと言えるかも知れない。清也は家業は継がず、配管設備を主業とする建設会社「新潟企業」のサラリーマンとなった。そして1969(昭44)に母トミと結婚。トミは専業主婦となり、附船町の工場兼自宅での同居だった。 photo新潟鐵工所(現新潟造船)と布団の打ち直し風景
  1971(昭46)年に清也とトミに⻑男康一こと私が生まれる。続いて2年後には弟純也も誕生する。 附船町では手狭なため、1975(昭50)年に郊外の黑埼町(現新潟市⻄区)に引っ越し。そこで康一・純也の二人は普通のサラリーマン家庭に育つ。 そのような環境にありながら、物心がついた頃から、自分自身のルーツは、「貿易業の吉塚源吉商店」と「布団店の池田末吉商店」にある、と意識するようになった。親戚周辺もそのような「実業」の雰囲気であった。また墓参りをするたびに「実業で身を立てた先祖」を意識する。サラリーマンとして人生を送るのではなく、自分自身で実業を起こすことに漠然とした運命・引力を感じる。 もちろんそのような運命論など本人の思い込みに過ぎないのだが、しかし今にして思えば随分と役に立つ。本日ここに集まっていらっしゃる聴衆の皆さんのほとんどは経営者だと思う。引き寄せられる気持ち、諦めにも似た運命論には共感頂けるのではないか。 photo1歳の頃の吉塚と父清也
 

(2)少年期


さて康一は附船町から郊外の新興住宅地である黒崎町に引っ越し、地元の大野小学校、黒崎中学校と進む。運動は苦手で特に球技は全くダメだったが、足だけは比較的速かったので陸上部に入る。しかしレギュラーではなく2軍に甘んじる。成績は良く特に英語が好きだった。洋楽好きだったお陰。そして新潟市内ではNo.2の進学校である新潟南高校に進む。毎日鳥原から自転車で30分ほどの通学。新潟南高校では友達に誘われ映画研究部に入り、毎年夏休みに8mm映画を撮ったりする。非モテ系の⻘春時代であったが、毎日楽しく過ごした。 1987(昭62)年康一が高校1年生のとき父清也が亡くなる。同居していた祖母キソもその後亡くなり、母トミと弟純也との三人暮らしとなる。父の遺族年金等で救われるが、経済的には厳しくなった。母が白根にあるニット工場(メリヤス編み)で働き家計を支える。育ち盛りの男子2人をかかえ、実際のところ大変だったと思う。今でも母には感謝に堪えない。 父の清也は清蔵とキソの⻑男、1940(昭15)生まれ。清蔵は1960(昭35)年に亡くなるが、⻑男が成人したのを見届けられたのはまだ幸福だったと言えるかも知れない。清也は家業は継がず、配管設備を主業とする建設会社「新潟企業」のサラリーマンとなった。そして1969(昭44)に母トミと結婚。トミは専業主婦となり、附船町の工場兼自宅での同居だった。 1990(平2)年から晴れて新潟大学法学部へ通う。自転車で20分。英語を学びたいので、サークルは英語研究部(ESS)に入る。塾講師のアルバイトで資金を貯めあちこち旅行をした。在学中は「弁護士になる訳でもないのにこの勉強は何の役に立つのか」と疑問に思ったこともあるが、経営者になってからは非常に生きている。特に当社が扱うサードパーティー品は知的財産に関する知識が欠かせない。大いに自分の強みとなっている。

(3)互換サプライ品との出会い


⼤学1年⽣のときに「ワープロ」に出会う。ESSの先輩が使っていた。シャープの書院というワープロ。現在はどのようなものか知らない⼈の⽅が多い。いわばワードだけ⼊ったノートブックパソコンに、モバイルプリンターがついているようなヤツ。⽂書をフロッピーディスクに保存でき、推敲が簡単になると同時に、そのデータを使いまわして似たような⽂書をどんどん印刷できる。⼿書きとは圧倒的に違う効率が実現できる。 photoシャープのワープロ「書院」
  法学部に進んだ理由は就職のほかにも、硬い⽂章を書くのが好きでもあり、また得意でもあったということもある。ワープロを駆使して様々な申請書類を効率よく作ることが可能となったので、育英会奨学⾦はもちろん、授業料免除、さらには国費留学⽣にもなることが出来た。1993(平5)年から1年2か⽉ものあいだ⽂部科学省の国費交換留学⽣でカナダのトロント⼤学に⾏くことが出来た。新潟⼤学は国⽴⼤学なのでこのような⽂科省の制度が充実している⼀⽅、学⽣が地味なので応募者が少ない。振り返れば、カナダ留学が⾃分の⼈⽣を⼤きく変えた「会⼼の⼀撃」だった。新潟⼤学で良かった、と⼼から思う。 さて会⼼の⼀撃を呼び込んだワープロの話。当時のワープロは本体⾃体も⾼かったが(20万円弱)、サプライ品であるインクリボンカセットもやはり⾼かった。シャープの純正リボンは1個1,000円程度。インクで⾔えば容量にあたる⻑さは「80m」。A4サイズはヨコ210㎜。通常は36⾏。よってA4⽤紙1枚の印刷につき76cm程度消費する。計算では100枚ほど印刷できるはずだが、どうも50枚ほどしか印刷できない。 photoシャープ製の純正品リボンカセット   現在のインクジェットプリンターにおいても、「ヘッドクリーニング」すなわちヘッド詰まりの解消を⽬的として、本来は印刷に使われるべきインクをヘッド内の空気を⾶ばすために定期的に消費し、廃インクパッドに送る仕組みがある。ワープロのリボンカセットの動きをみると、電源オンの初動時にリボンを送る仕組みがある。場所の特定、正しい動作の確認など、技術的な理由はあるのだろうが、貧乏学⽣には何かモヤモヤと納得できない気持ちがあった。 しかし当時から互換品が存在していた。オーム電機、富⼠フィルム、花王、パイロット、コクヨ、ダイニック、マクセル等だ。シャープの純正品が1,000円程度なのが、互換品だと半額ほどだった。使い勝⼿は同じ。経済的に苦しいヘビーユーザーとしては、これらの互換品のお陰でどれだけ助けられたかわからない。しかし互換サプライ品を⾃分の⼀⽣の仕事にしようとは当時知る由もない。 photoシャープ書院⽤の互換品リボンカセット(左からパイロット、オーム電機、富⼠フィルム)

(4)総合商社


さてカナダ留学を終えて帰国すると、新潟⼤学ESSの尊敬する先輩渡辺哲也さんが三井物産に⼊社していたので、それを頼って就職活動し、1996(平8)年三井物産に⼊社。現在では総合職で地⽅⼤学から総合商社に滑り込むのは⾄難の業だ。エントリーシートによる⼀律受付は、業務効率から⼤学名でフィルタリングせざるを得ない。当時はまだ先輩の縁と⼈物評価でそのような道が開かれる可能性が残されていた。 ⼊社が決まり配属⾯談になると、「カナダの⼟地勘があるだろう」と製紙原料部でカナダ産製紙⽤パルプを輸⼊し国内の⼩規模な製紙⼯場に販売する業務につく。貿易のイロハ、商売のイロハをゼロから教えてもらった。しかしそれだけではない。印刷はプリンターと紙で成り⽴つ。紙についての基礎的な知識を得ることが出来た貴重な財産となった。印刷⽤紙の推移で印刷の需要がわかる。また紙の特性を知ることでプリンターにもとめられる品質がわかる。 1998(平10)年中国修業⽣として北京語⾔⽂化⼤学(語⾔学院)に留学。翌年三井物産南京事務所へ。社内で⾔うところの中国村(中国ビジネス専⾨家)への道をたどる。まだ天安⾨事件から10年経っていない時期。当時は中国ビジネスの実務を担える⼈材は商社のなかでも多くなかった。⾃分が会社の役にたっていることが嬉しかった。 photo北京語⾔⽂化⼤学と三井物産南京事務所
2000(平12)年に東京本社に戻るとエレクトロニクス事業部へ。液晶パネル(ICチップのかたまり)を輸出するディスプレイ事業室へ。三洋電機の⼦会社「⿃取三洋電機」に三井物産も出使し、同社製の液晶パネルを⽶国のPCメーカーに売りまくっていた。社⻑賞も獲得した三井物産内部でも当時は有名な花形部署。優秀な先輩が集まっている。そんなチームの⼀員となれたことが誇らしかった。 photo⿃取三洋製TFT液晶モジュール
⽶国のPCメーカーの下請け⼯場が台湾から中国⼤陸に移転していく流れを追いかける形で、2002(平14)年に上海で100%⼦会社「三井信息電⼦(上海)有限公司」の⽴ち上げる。そのまま副社⻑になり上海駐在。中国での会社設⽴の実務だけではなく、経営陣の⼀員としてチームをまとめ事業を離陸させる最前線に⽴つという貴重な機会を得た。 しかし⽇本メーカーの液晶パネルビジネスは韓国勢、台湾勢に侵⾷され徐々に悪化していった。⽇本企業の優位性がいとも簡単に失われ、追い落とさせる現実を知る。⽇本企業では⼀部の現実主義的な社員を除いて、⾃らの置かれた⽴場と、伸び⾏く外国勢の実態を理解できていなかった。その当時は頓珍漢で時代最後な⽇本優位論を⽿タコで聞かされた。まさに⾃業⾃得、⾃滅であった。現在では台湾・韓国勢も中国メーカーに追い落とされ、北京のBOE(京東⽅)が液晶パネル製造の最⼤⼿である。 韓国勢・台湾勢に押されて液晶パネルの輸出が劣勢になるなか、三洋電機⾃体が経営不振に陥る。そのときは三井物産の部署⾃体が解体される話もあり、モチベーションが落ちる。三井物産の優秀な先輩や同僚のなかで⾃分が出世する可能性がないことも良く理解できており、ここがそろそろ引き際、⾃分⾃⾝で商売をやろうと2005(平17)年に退職、株式会社キュリエを創業した。 photoキュリエ創業時の吉塚

(5)サードパーティーのオフィスサプライ品


起業後最初の仕事は三井物産の下請けで中国製液晶パネルを販売する業務のサポート。上司の計らいで1年ほど⾷いつないだ。2008(平20)年に英倫の沈総経理より互換インクの紹介を受ける。これはいけると直感が働く。互換インクはプリンター本体を製造する純正メーカーから忌み嫌われる存在で、ときには「パッチもん」「コバンザメ」などと呼ばれる。使う側の消費者ですら何やら後ろめたさを感じる。まして供給する企業は⽇陰者と⾒られがちだ。しかし吉塚は当初から全然そうは思わなかった。むしろ世の中に必要な存在だと確信した。 印刷は⽣活必需品だ。⽣活が苦しい個⼈や企業にも印刷は必要。⾼価な純正品をいくらでも買える⼈はそちらを買えばいい。⼀⽅で主に経済的な理由でそれを賄えない⼈もいる。その⼈たちに選択肢を与え得る。例えばドラッグストアに⾏けば、同様な商品でも様々な選択肢がある。ベビーオイルやヘアスプレーでも。他社の知的財産権を侵害しない限り、安価なジェネリックを供給することは善である。 photo経済的に余裕がない⼈たちには安価な選択肢が必要
さっそく⽇本市場向けに営業活動を開始。販路が拡がっていくが、単純な貿易ではビジネスが持続しないことが明らかになる。2012(平24)年に商品購⼊元が当社の仕⼊れ担当チームと結託し⼤量離脱。当時の最⼤の顧客への商流が横取りされる事態となる。今から思えば吉塚⾃⾝の不徳の致すところとしか⾔いようがない。商売への⾒⽅が⽢かったし、油断があった。当時は売上3億円くらいの時期で、⼀気に5000万円ほどの売上減。あのとき倒産していてもおかしくなかったと思う。単純な貿易では⽣き残れない。川上に⾏くか、川下に⾏くか。進路は後者、川下しかない、ということで、同じ2012(平24)年に⾃社販売のネットサイト「インクのチップス」を開始。吉塚⾃⾝はある程度ネットリテラシーに⾃信があったが、それでもネットショップ/⼩売業は専⾨外。若⼿社員2名に託し、また⾃分⾃⾝も学びながら徐々に業績を伸ばしていく。 本店に続き楽天市場に出品。2015(平27)年、2017(平29)年の⼆回、インクのチップス楽天市場店が「ショップ・オブ・ザ・イヤー(PC周辺機器ジャンル賞)」を受賞する。Amazon、ヤフーショッピング等にも出品。チップスに続く第2ブランド「横浜トナー」、第3ブランド「エコスロバキア」もスタートさせた。2018(平30)年からはインクのチップスのキャラクターに⻑州⼩⼒を起⽤、認知度がさらに上がってきている。 photoショップオブザイヤーを受賞photoメインキャラクターに⻑州⼩⼒を起⽤
全ての⼩売業がリアルからネットへと移⾏しているが、当社が扱う互換インクは特にその傾向が強い。Amazon創業者ジェフベゾスが最初に書籍を扱った理由は、ネット書店の無尽蔵な品揃えが、リアル書店の品揃えを圧倒することがわかっていたから(最⼤級書店でも4万5,000タイトルが限界)。互換インクもプリンターも型番増加が著しく、家電量販店は棚不⾜が慢性化。⼀⽅当社ネットショップは、⿊+1、⿊+2、2セット、⿊だけ10個、⿊抜きカラーのみ等、顧客が真に求めるラインナップを揃えることが出来る。ネット事業への追い⾵は強い。 photo型番の膨⼤化により、リアル店舗では品ぞろえが困難に
さて当社のもう⼀⽅の営業部である貿易部⾨(法⼈事業部)も好調だ。同部ではサプライ品の完成品ではなく、その部材にシフト。中国製のICチップ、感光ドラム(OPC)、ローラー類、トナーパウダー、回収エンプティ―等を⽇本国内の再⽣トナー⼯場に販売している。再⽣トナー⼯場は関⻄に多い。2019(平31)年4⽉より⼤阪オフィスを⽴ち上げ。部材マッチングの研究開発技術者2名、営業1名の体制で業績を伸ばしている photo様々なトナー⽤部材を取り扱う
 

(6)吉塚の使命


キュリエの企業理念にも謳っている通り、当社は「安価な印刷を提供する」ことを使命としている。⼈類は⻑い印刷の歴史とともにある。印刷が安価になったので、知識が庶⺠層にも広まった。安価な印刷が歩みを⽌めることはない。 テクノロジー進化によるペーパーレスを憂う声があるが、印刷がなくなることはないし、その変化もゆっくりとしたものである(年間1〜2%減)。崖は来ない。法⼈部⾨でペーパーレスが進むのは⼤企業で、このセクターは主に純正メーカーが市場としている。サード品の当社が主に顧客とする中⼩部⾨の変化は遅い。 また個⼈部⾨では年賀状の減少、写真印刷の減少等、インクジェット部⾨の需要減が顕著だが、ホームワーク印刷等のレーザー部⾨は伸びている。⽇本の将来市場は⽶国を⾒れば予測可能。課題のエッセイ(作⽂)はネット提出が普通だ。⾃宅で印刷し⾚ペンを⼊れる⽣徒/学⽣と、ディスプレイをそのまま⾒て推敲する⽣徒/学⽣では成績に差が出る。動物は太陽の光を⾒ない。⼈間も光源を直接⾒ると冷静でいられない(例︓キャンプファイアー)。落ち着いた推敲には反射光、すなわち紙による添削が有利である。 photo
当然当社も現在のビジネスモデルに固執することなく、デジタル化の進展を捉え、将来発展するはずの「レンタルプリンター」や「マイクロMPS」という事業も視野に⼊れている。しかし同時に現在強みを発揮している主戦場である「サードパーティーのサプライ品」もしっかり深掘りする。品質⾯・サービス⾯ではまだ発展途上だ。「安価な印刷で価値創造」と謳う当社にとって、安かろう悪かろうに価値はない。しっかりと安⼼して使えて、アフターサポートも充実した安価なサード品を提供するのを会社の使命としている。 そしてこれは同時に個⼈としての吉塚⾃⾝の使命と確信している。使命とは「命を使う」と書く。⾃分の命を何のために使うのか。その問いはすなわち、⾃分が何をするために⽣まれて来たのか、何をするためにこの世に現れたのか、ということだ。⾃分の先祖にまで遡り、また⾃分の⽣い⽴ち、社会⼈としてのキャリアをゆっくり振り返ると、やはり「安価な印刷を提供する」ために⽣まれてきたと思わざるを得ない。 ⼤学時代にワープロの互換リボンが存在したお陰で、貧しくとも⾃分の潜在能⼒を発揮し、⼈⽣を切り開くことが出来た。安い印刷の価値はまさにここにある。吉塚には三⼈の⼦供がいる。8歳(男)、5歳(⼥)、3歳(⼥)の三⼈だ。⼩学⽣の⻑男に「お⽗さんは何の仕事をしてるの︖」と聞かれることがある。吉塚は⾃信を持ってこう答える。「安い印刷を提供する仕事だよ。お⽗さんのような会社があるから貧しい⼈も勉強できるんだ。⼈々を救うとても素晴らしい仕事だよ。」 photo