代表 吉塚の思い
(1)先祖について
曾祖父の吉塚源吉は福岡の生まれで貿易業(主には国内貿易)。おそらくは布団の綿の原料になる綿花/綿布を扱っていたのであろう。新潟の大口顧客だったふとん店「池田末吉商店(池末)」から曾祖母池田イチを妻にもらい新潟に定住した。明治中頃の話。源吉は1901(明治34)年に亡くなり、イチが昭和初期まで吉塚源吉商店を切り盛りする。二人には実子がおらず、池田からもらい育てた養女も亡くなった。イチは亡くなる前に吉塚源吉商店の財産を曹洞宗の寺院に寄進し、その地は現在「吉塚山大仙寺」になっている。(一方で源吉以下先祖の墓は同じ⻄堀の曹洞宗法音寺にある)


(2)少年期
さて康一は附船町から郊外の新興住宅地である黒埼町に引っ越し、地元の大野小学校、黒埼中学校と進む。運動は苦手で特に球技は全くダメだったが、足だけは比較的速かったので陸上部に入る。しかしレギュラーではなく2軍に甘んじる。成績は良く特に英語が好きだった。洋楽好きだったお陰。そして新潟市内ではNo.2の進学校である新潟南高校に進む。毎日鳥原から自転車で30分ほどの通学。新潟南高校では友達に誘われ映画研究部に入り、毎年夏休みに8mm映画を撮ったりする。非モテ系の⻘春時代であったが、毎日楽しく過ごした。 1987(昭62)年康一が高校1年生のとき父清也が亡くなる。同居していた祖母キソもその後亡くなり、母トミと弟純也との三人暮らしとなる。父の遺族年金等で救われるが、経済的には厳しくなった。母が白根にあるニット工場(メリヤス編み)で働き家計を支える。育ち盛りの男子2人をかかえ、実際のところ大変だったと思う。今でも母には感謝に堪えない。 父の清也は清蔵とキソの⻑男、1940(昭15)生まれ。清蔵は1960(昭35)年に亡くなるが、⻑男が成人したのを見届けられたのはまだ幸福だったと言えるかも知れない。清也は家業は継がず、配管設備を主業とする建設会社「新潟企業」のサラリーマンとなった。そして1969(昭44)に母トミと結婚。トミは専業主婦となり、附船町の工場兼自宅での同居だった。 1990(平2)年から晴れて新潟大学法学部へ通う。自転車で20分。英語を学びたいので、サークルは英語研究部(ESS)に入る。塾講師のアルバイトで資金を貯めあちこち旅行をした。在学中は「弁護士になる訳でもないのにこの勉強は何の役に立つのか」と疑問に思ったこともあるが、経営者になってからは非常に生きている。特に当社が扱うサードパーティー品は知的財産に関する知識が欠かせない。大いに自分の強みとなっている。(3)互換サプライ品との出会い
⼤学1年⽣のときに「ワープロ」に出会う。ESSの先輩が使っていた。シャープの書院というワープロ。現在はどのようなものか知らない⼈の⽅が多い。いわばワードだけ⼊ったノートブックパソコンに、モバイルプリンターがついているようなヤツ。⽂書をフロッピーディスクに保存でき、推敲が簡単になると同時に、そのデータを使いまわして似たような⽂書をどんどん印刷できる。⼿書きとは圧倒的に違う効率が実現できる。


(4)総合商社
さてカナダ留学を終えて帰国すると、新潟⼤学ESSの尊敬する先輩渡辺哲也さんが三井物産に⼊社していたので、それを頼って就職活動し、1996(平8)年三井物産に⼊社。現在では総合職で地⽅⼤学から総合商社に滑り込むのは⾄難の業だ。エントリーシートによる⼀律受付は、業務効率から⼤学名でフィルタリングせざるを得ない。当時はまだ先輩の縁と⼈物評価でそのような道が開かれる可能性が残されていた。 ⼊社が決まり配属⾯談になると、「カナダの⼟地勘があるだろう」と製紙原料部でカナダ産製紙⽤パルプを輸⼊し国内の⼩規模な製紙⼯場に販売する業務につく。貿易のイロハ、商売のイロハをゼロから教えてもらった。しかしそれだけではない。印刷はプリンターと紙で成り⽴つ。紙についての基礎的な知識を得ることが出来た貴重な財産となった。印刷⽤紙の推移で印刷の需要がわかる。また紙の特性を知ることでプリンターにもとめられる品質がわかる。 1998(平10)年中国修業⽣として北京語⾔⽂化⼤学(語⾔学院)に留学。翌年三井物産南京事務所へ。社内で⾔うところの中国村(中国ビジネス専⾨家)への道をたどる。まだ天安⾨事件から10年経っていない時期。当時は中国ビジネスの実務を担える⼈材は商社のなかでも多くなかった。⾃分が会社の役にたっていることが嬉しかった。


(5)サードパーティーのオフィスサプライ品
起業後最初の仕事は三井物産の下請けで中国製液晶パネルを販売する業務のサポート。上司の計らいで1年ほど⾷いつないだ。2008(平20)年に英倫の沈総経理より互換インクの紹介を受ける。これはいけると直感が働く。互換インクはプリンター本体を製造する純正メーカーから忌み嫌われる存在で、ときには「パッチもん」「コバンザメ」などと呼ばれる。使う側の消費者ですら何やら後ろめたさを感じる。まして供給する企業は⽇陰者と⾒られがちだ。しかし吉塚は当初から全然そうは思わなかった。むしろ世の中に必要な存在だと確信した。 印刷は⽣活必需品だ。⽣活が苦しい個⼈や企業にも印刷は必要。⾼価な純正品をいくらでも買える⼈はそちらを買えばいい。⼀⽅で主に経済的な理由でそれを賄えない⼈もいる。その⼈たちに選択肢を与え得る。例えばドラッグストアに⾏けば、同様な商品でも様々な選択肢がある。ベビーオイルやヘアスプレーでも。他社の知的財産権を侵害しない限り、安価なジェネリックを供給することは善である。
さっそく⽇本市場向けに営業活動を開始。販路が拡がっていくが、単純な貿易ではビジネスが持続しないことが明らかになる。2012(平24)年に商品購⼊元が当社の仕⼊れ担当チームと結託し⼤量離脱。当時の最⼤の顧客への商流が横取りされる事態となる。今から思えば吉塚⾃⾝の不徳の致すところとしか⾔いようがない。商売への⾒⽅が⽢かったし、油断があった。当時は売上3億円くらいの時期で、⼀気に5000万円ほどの売上減。あのとき倒産していてもおかしくなかったと思う。単純な貿易では⽣き残れない。川上に⾏くか、川下に⾏くか。進路は後者、川下しかない、ということで、同じ2012(平24)年に⾃社販売のネットサイト「インクのチップス」を開始。吉塚⾃⾝はある程度ネットリテラシーに⾃信があったが、それでもネットショップ/⼩売業は専⾨外。若⼿社員2名に託し、また⾃分⾃⾝も学びながら徐々に業績を伸ばしていく。
本店に続き楽天市場に出品。2015(平27)年、2017(平29)年の⼆回、インクのチップス楽天市場店が「ショップ・オブ・ザ・イヤー(PC周辺機器ジャンル賞)」を受賞する。Amazon、ヤフーショッピング等にも出品。チップスに続く第2ブランド「横浜トナー」、第3ブランド「エコスロバキア」もスタートさせた。2018(平30)年からはインクのチップスのキャラクターに⻑州⼩⼒を起⽤、認知度がさらに上がってきている。
ショップオブザイヤーを受賞
メインキャラクターに⻑州⼩⼒を起⽤
全ての⼩売業がリアルからネットへと移⾏しているが、当社が扱う互換インクは特にその傾向が強い。Amazon創業者ジェフベゾスが最初に書籍を扱った理由は、ネット書店の無尽蔵な品揃えが、リアル書店の品揃えを圧倒することがわかっていたから(最⼤級書店でも4万5,000タイトルが限界)。互換インクもプリンターも型番増加が著しく、家電量販店は棚不⾜が慢性化。⼀⽅当社ネットショップは、⿊+1、⿊+2、2セット、⿊だけ10個、⿊抜きカラーのみ等、顧客が真に求めるラインナップを揃えることが出来る。ネット事業への追い⾵は強い。
型番の膨⼤化により、リアル店舗では品ぞろえが困難に
さて当社のもう⼀⽅の営業部である貿易部⾨(法⼈事業部)も好調だ。同部ではサプライ品の完成品ではなく、その部材にシフト。中国製のICチップ、感光ドラム(OPC)、ローラー類、トナーパウダー、回収エンプティ―等を⽇本国内の再⽣トナー⼯場に販売している。再⽣トナー⼯場は関⻄に多い。2019(平31)年4⽉より⼤阪オフィスを⽴ち上げ。部材マッチングの研究開発技術者2名、営業1名の体制で業績を伸ばしている
様々なトナー⽤部材を取り扱う




(6)吉塚の使命
キュリエの企業理念にも謳っている通り、当社は「安価な印刷を提供する」ことを使命としている。⼈類は⻑い印刷の歴史とともにある。印刷が安価になったので、知識が庶⺠層にも広まった。安価な印刷が歩みを⽌めることはない。 テクノロジー進化によるペーパーレスを憂う声があるが、印刷がなくなることはないし、その変化もゆっくりとしたものである(年間1〜2%減)。崖は来ない。法⼈部⾨でペーパーレスが進むのは⼤企業で、このセクターは主に純正メーカーが市場としている。サード品の当社が主に顧客とする中⼩部⾨の変化は遅い。 また個⼈部⾨では年賀状の減少、写真印刷の減少等、インクジェット部⾨の需要減が顕著だが、ホームワーク印刷等のレーザー部⾨は伸びている。⽇本の将来市場は⽶国を⾒れば予測可能。課題のエッセイ(作⽂)はネット提出が普通だ。⾃宅で印刷し⾚ペンを⼊れる⽣徒/学⽣と、ディスプレイをそのまま⾒て推敲する⽣徒/学⽣では成績に差が出る。動物は太陽の光を⾒ない。⼈間も光源を直接⾒ると冷静でいられない(例︓キャンプファイアー)。落ち着いた推敲には反射光、すなわち紙による添削が有利である。

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